モナムール

解離性同一性障害が、寛解するまでの独り言

生きること。続き。

最近になって漠然と思うことを上手く言語化できそうなので綴ります。無名です。自死と云うのは、私が死ぬのは勝手だと思い、未遂を、それはそれは繰り返してきました。しかし、実際に残された遺族の方の記事を読んで、よくSNSに散見される、自死がある種の暴力を孕んでいると云う言説を馬鹿げているものだとする考えを、私は改めざるを得ませんでした。私が未遂して病院のベッドで再会にした母親はどの様な心持ちだったのか推し量れはしませんが、私は母の心をめった刺しにしたことには変わりないのです。そして何より、私自身に対しても心をめった刺しにしてきたのだと思います。私が死ぬ分には勝手だと云う論理はやはり多分に自己本位で身勝手だと実感します。私は別段、誰彼の自死を否定したり、考えを強制させたい訳ではなく、ただ単に、私が死ぬ分には勝手だと云う論理を振りかざして、未遂を繰り返して、他人の、また自分の、心をめった刺しにしておいて、自他を省みることなく生きてきたのはあまりに未熟であると云うことに今更ですが、思わずには考えずにいられないのです。日に日に弱っていく母親の顔が過ぎります。友達の送った文面から哀しい匂いがします。私自身、悲しくなりました。こんなつもりではなかったのにと弁解の様なことを思うのは未熟さの露呈でしょうね。さりとて、私は依然して、歩むと、必ず選択肢に自死がありますし、その選択肢に魅力を感じてますし、惹きつけられる何かがありますし、もう生きる気力を失ってます。どうすればいいのか分からないのです。けれど、止まることは違うと感じるので、分からない中で、分からないなりに、どうすればよいのか模索していきたいと思う次第です。