モナムール

解離性同一性障害が、寛解するまでの独り言

関わり合い、傷つかない社会、諸々のまとめ(夢飼)

1.関わり合いとは、私にとっては、近づくだけ傷つけ合う人間のどうにもならない性を互いに受容し、されど常に互いの関係性の中において、正しさとは何か、傷つける構造があるなら、それをよしとせず、考え続ける、など、常にあらゆる気配に、実践的に、気を配り(配慮)、問い続けなければならない。


2.仮にも魂から迫り来る言葉を紡ぐとするならば、みんなにとって、誰も傷つかない安全な言葉であるという保証はない。もしも誰も傷つけてはならない世の中があるならば、そこに住まう人間は誰もが他者に喋ることも、言葉を綴ることも、やめてしまうだろう、ということがありありと想像できるのである。


3.私は関係性の中にあろうと、あらゆる人々と、それを言うなら、もしも死とすら関わりの中にあろうと、誰と、何と、関わるかくらいは己が自由に決定するという信念がある。関わろうと、決めた人間など、数年生きた程度の人生経験の浅い私だが一人くらいなものだ。


4.あらゆることは疑い得るし、なんなら「我、思う、故に我あり」と思考する自分もまた疑い得る。この事実に、これすら疑い得る、私はとてつもない眩暈がします。信じることは、あることを疑うことから始まり、己が納得する答えを定立して、ようやっと信じようと、賭けるもの。ギャンブル性を帯びてる。


そこまでして、信ずるならば、私にとっては嘔吐からの逃避なのだ。


5.元型は小宇宙の向こうから流れ込み、私に、眼を与えた。故に、私は見るという行為によって、観測し、接近し続ける。闇の中で眩暈を感ずるのも、突如、嘔吐するのは、絶望からである。私は光を望まない。闇でのたうちまわる幼子になりたい。いや、そうなる。


6.考えるというのは人間の営みである以上は、地平線に向かって運動し続けるボールのようなものである。つまり動的なものであり、対称的に、静止的とは何か?つまり、世界である。完成された条理である。ちょうど磁石のように、動的な営みは、静的な静寂に向かい続ける。ある種、愚かしい行為でもある


8.愚昧なるかな!俺と云う人間は!