モナムール

解離性同一性障害が、寛解するまでの独り言

私にとって考えるとは....

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例えば、拾った貝殻について、あれこれ考えることで、私の中で貝殻と云う材料は深化する。あまり考えないということは要するに、引き出しの中が乏しい。それについては後ほど説明する。


第一に、まず私の手垢がつく。私の沼に引き摺り込む作業が、貝殻について思考を深めることでもあるし、触って、見て、感じることでもある。

2に、無意識の領域の領域にまで落とし込まれる。


私は無意識をある種の深海の空間のように考えていて(実際に、そう見え、感じる)、暗闇に無数の私(感情、記憶)が自己実現を図ろうと、自我という惑星に語りかけている。


太陽があり、だからこそ、私は宇宙を観測する。

太陽には賢者がいます。

月には女神がいます。

その話はいつしかブログでまとめよう。


さて、貝殻は、もはや形も、触覚もなくし、深化していく過程で徐々に、溶け込んでいくと、いう直感がある。

これについて考えよう。


拾った貝殻を友人と触りあっても、抱く印象は、具体的に言って、例えば、赤い、固い、などを語って一緒に本物を触りあってるような幻想を抱きがちだが、あなたの触った貝殻と、私の触った貝殻とは、同じようで、違う。


知覚は純粋なフィルターでなされても、貝殻について受け取ったさまざまな要素は、私は引き出しから開けた材料を元に判断をするし、考えるからであって、それが他者とおんなじだとはどうしても思えんのです。


人は、何もない状態からは、どうにも考えられないように思える。ちょうど、入り込んできた貝殻に対して、貝殻を手にして、これは何だろう。どう使えるのか。叩けば割れるのか。それらについて何度も考える主体である私は、例えば、前にも似たようなものを手にしたとか、海辺にたくさん転がってるけど、砂浜を離れれば、転がってないなど、材料を元に比較検討している。そして、それは人それぞれ違う。


このような考えは対象をさまざまな具体的な要素に分解する、分解的思考であり、

再構築的思考とは、材料を、自分の中の引き出しの、私の材料として、好き勝手に、組み替えることであり、ここに考えることの楽しみや自由があるように思います。


そうした、自分の中を思索の旅の過程を得て、私の中で貝殻とはどのようなものか、一度は分解され、また、私の血肉として、再構築され、私の引き出しの材料が形成されるわけです。


だからこそ、


だからこそ、おんなじ貝殻を持ってるようで、互いにどこかズレたものを見ているわけです。


材料、は例えるなら、種で、考えることは地表に降る恵の雨で、いつしか芽を出し、世界は豊かになっていく。


宇宙を漂う星雲でもいい。

生成され、変化し、融合し、消滅する。


それらの過程は、どちらも、考えるということが第一運動になってる。


あまり考えないとは、上記の理由で、だからこそ引き出しの材料が乏しくなる。