モナムール

解離性同一性障害が、寛解するまでの独り言

「寄生獣」という作品について夢飼が語る。

「みんなの命を守らねば」という台詞に、映像に、倫理で学んだマキャヴェッリを思い出した。みんなの命を守るという理想論から出発しながらも、優先順位の低い(と判断されただろう)、限られた資源を貪る人間を、どこまでもある種、冷徹な眼差しで排除していく現実的で、残酷で、合理的な選択。


全てを救うという理想論に対して、冷徹な眼差しで、人間には全ては救えはしないから、優先順位をつけてもいいというようなことを言ってて相対するように思えたけど、でもその根底にはあるものは理想論とさして変わらないんじゃないかと疑問に思ってる。つまり、みんなを守る為には、どうすればいいか。


みんなって、マキャベリにとっては人間だったのだろうけど、それはあまりに人間中心的な視点で、寄生獣が偉大なのは、更に一歩飛躍して、地球全体の生命やバランスにまで及んでる点だ。


皮肉なのは、結局、「みんなの命を守らねば」という、田宮のいう人間への排除の命令は、「人間の底なしの悪意」によって、寄生獣は駆除され、無敵な後藤すら、倒れ、ある意味、叶えられなかった。田宮は後藤を無敵であるが、同時にか弱い生き物だと言った真意はここにあるのではないか。


人間の生物の生態系、諸々の破壊に、歯止めをかけるべく、命令されたであろう存在が寄生獣で、しかし、人間存在、全体には、無力で、か弱い存在でしかなく結果的に負けてしまった。地球側の意思など仮にあろうが、人間存在の底すらない悪意の前には地球など無力でしかないということを示唆している。


広川の演説を聞いて、心から賛同できる人間なんて、いるのだろうか。私は理解は示すが、賛同はできない。何故なら、地球の為に命を投げ出す広川のような献身性も、豊かな生活を投げ出す気持ちも、大切な存在の人生が奪われるのも、許容できないからである。


薄っぺらい賛同をする人間にはなりたくない...。


広川の思想を、無理矢理に排除したあの銃弾はある意味において人間存在の意思のメタファーだと言えまいか。初期、新一が寄生獣を排除しようとしたように。それは我々には何ら関係ないものだろうか。否である。我々はどこまでも人間存在である以上は、逃れようのない永遠のテーマである筈だ。


まだまだ、この愛すべき作品について語りきれないが、また今度にしよう。


ぜひ、「寄生獣」という作品の登場人物である広川の命を投げ出してまで人間存在に訴えたかった、「みんな(生物)の命を守らねば」というテーマの演説を、作品を通して、聞いてほしい。



関わり合い、傷つかない社会、諸々のまとめ(夢飼)

1.関わり合いとは、私にとっては、近づくだけ傷つけ合う人間のどうにもならない性を互いに受容し、されど常に互いの関係性の中において、正しさとは何か、傷つける構造があるなら、それをよしとせず、考え続ける、など、常にあらゆる気配に、実践的に、気を配り(配慮)、問い続けなければならない。


2.仮にも魂から迫り来る言葉を紡ぐとするならば、みんなにとって、誰も傷つかない安全な言葉であるという保証はない。もしも誰も傷つけてはならない世の中があるならば、そこに住まう人間は誰もが他者に喋ることも、言葉を綴ることも、やめてしまうだろう、ということがありありと想像できるのである。


3.私は関係性の中にあろうと、あらゆる人々と、それを言うなら、もしも死とすら関わりの中にあろうと、誰と、何と、関わるかくらいは己が自由に決定するという信念がある。関わろうと、決めた人間など、数年生きた程度の人生経験の浅い私だが一人くらいなものだ。


4.あらゆることは疑い得るし、なんなら「我、思う、故に我あり」と思考する自分もまた疑い得る。この事実に、これすら疑い得る、私はとてつもない眩暈がします。信じることは、あることを疑うことから始まり、己が納得する答えを定立して、ようやっと信じようと、賭けるもの。ギャンブル性を帯びてる。


そこまでして、信ずるならば、私にとっては嘔吐からの逃避なのだ。


5.元型は小宇宙の向こうから流れ込み、私に、眼を与えた。故に、私は見るという行為によって、観測し、接近し続ける。闇の中で眩暈を感ずるのも、突如、嘔吐するのは、絶望からである。私は光を望まない。闇でのたうちまわる幼子になりたい。いや、そうなる。


6.考えるというのは人間の営みである以上は、地平線に向かって運動し続けるボールのようなものである。つまり動的なものであり、対称的に、静止的とは何か?つまり、世界である。完成された条理である。ちょうど磁石のように、動的な営みは、静的な静寂に向かい続ける。ある種、愚かしい行為でもある


8.愚昧なるかな!俺と云う人間は!

私にとって考えるとは....

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例えば、拾った貝殻について、あれこれ考えることで、私の中で貝殻と云う材料は深化する。あまり考えないということは要するに、引き出しの中が乏しい。それについては後ほど説明する。


第一に、まず私の手垢がつく。私の沼に引き摺り込む作業が、貝殻について思考を深めることでもあるし、触って、見て、感じることでもある。

2に、無意識の領域の領域にまで落とし込まれる。


私は無意識をある種の深海の空間のように考えていて(実際に、そう見え、感じる)、暗闇に無数の私(感情、記憶)が自己実現を図ろうと、自我という惑星に語りかけている。


太陽があり、だからこそ、私は宇宙を観測する。

太陽には賢者がいます。

月には女神がいます。

その話はいつしかブログでまとめよう。


さて、貝殻は、もはや形も、触覚もなくし、深化していく過程で徐々に、溶け込んでいくと、いう直感がある。

これについて考えよう。


拾った貝殻を友人と触りあっても、抱く印象は、具体的に言って、例えば、赤い、固い、などを語って一緒に本物を触りあってるような幻想を抱きがちだが、あなたの触った貝殻と、私の触った貝殻とは、同じようで、違う。


知覚は純粋なフィルターでなされても、貝殻について受け取ったさまざまな要素は、私は引き出しから開けた材料を元に判断をするし、考えるからであって、それが他者とおんなじだとはどうしても思えんのです。


人は、何もない状態からは、どうにも考えられないように思える。ちょうど、入り込んできた貝殻に対して、貝殻を手にして、これは何だろう。どう使えるのか。叩けば割れるのか。それらについて何度も考える主体である私は、例えば、前にも似たようなものを手にしたとか、海辺にたくさん転がってるけど、砂浜を離れれば、転がってないなど、材料を元に比較検討している。そして、それは人それぞれ違う。


このような考えは対象をさまざまな具体的な要素に分解する、分解的思考であり、

再構築的思考とは、材料を、自分の中の引き出しの、私の材料として、好き勝手に、組み替えることであり、ここに考えることの楽しみや自由があるように思います。


そうした、自分の中を思索の旅の過程を得て、私の中で貝殻とはどのようなものか、一度は分解され、また、私の血肉として、再構築され、私の引き出しの材料が形成されるわけです。


だからこそ、


だからこそ、おんなじ貝殻を持ってるようで、互いにどこかズレたものを見ているわけです。


材料、は例えるなら、種で、考えることは地表に降る恵の雨で、いつしか芽を出し、世界は豊かになっていく。


宇宙を漂う星雲でもいい。

生成され、変化し、融合し、消滅する。


それらの過程は、どちらも、考えるということが第一運動になってる。


あまり考えないとは、上記の理由で、だからこそ引き出しの材料が乏しくなる。

1+1=愚か者

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甘雨の降る、オレンジ畑に、私はいます。びしょ濡れです。困りました。ふと、思います。私はこの地上を生きてきました。

ポケットに手をいれて空を仰ぎます。

大地を讃えよという、懐かしい歌が聞こえてきました。いつしか口ずさんでいました。

世界は美しくて、完成された条理がある。


だからこそ思うのです。


「世界は完成されているのか? ならば何故こうも世の中は腐敗し、悪化しているのか? たった、ひとりの命が叫ぶ声さえ聞き届けられない世の中にも、人間にも、私は失望している。なあ、美しき世界よ。絨毯にたった一滴の哀しみの涙で濡れたならば、その上で生を謳歌する人々、は哀しむべきだろう」、と。


「私も含めて、人間とやらに失望した。疲弊しきってるのは、他人に向き合い続けようと試みたからだ。死という逃避は選択する気はない。せいぜいやってらんねーよって鼻で笑いながらゲームでもする。」


私は何かを破壊しながら生誕し、また何かを破壊しながら存続してるのだと思います。


そうして、僕らは回転の中にありながらも、廻るたびに、魂を削っていく生き物なんじゃないかとも思います。


きっと、

人間の生誕も、魂の眼を与えられた私たちも、ガチャで言う所の外れなのかと思いました。


きっと猫の魂が世界でもっとも純粋なんですよ。


生きていた理由なんていくらでも量産できるならば、

生きてく答えなどいくらでも量産できるならば、

結局のところは、私が納得できればいい。

満足できればいいに帰結する。


1+1=愚か者


私の中では美しい数式も世界でもっとも醜いものにしてしまえます。


だから愚か者です。


私は何故生きて、

これから先、どうして、生きていくのか。


私は、満足いく理由も、答えも、見出せそうにないです。

いいや、あるのだろうけれど、

言葉にならないのでして、無理に言葉にすると言語と一体化してしまう感じです。


雨風に潜むものを、私は直感します。


直感とは、表象不可能に潜るに近く、光一筋射さない、あらゆる欲動が、星々なりて、ちっぽけに漂う魂である私に、語りかける、そんな宇宙にて月の神殿に住まう、元型として女神は純粋に受け取ることなのでしょう。


女神が穢れなき存在だからこそ、浄化し、昇華し、純粋なまでに磨き上げられた、例えるなら、言葉にはならない残酷な、そして世界に溶けた、私たちの祈りも、剣山のような、それは私の内-宇宙に溶けていくのです。


胸が苦しくなります。

そうして、私は沈黙の中で、瞼を閉ざします。

この世界を生きることは、ただそれだけで苦痛にて。

静寂からは程遠い虹色変化の砂漠に泪が一滴が流れ落ちました。


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自分語り

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運命に無知でいられることは幸福だか、運命に裏切られることは不幸だ。俺は裏切られ続けました。そうして、いつしか諦念に至りました。将来は悲惨でしょう。記憶の鼓動が、聞こえる日が最近よくあります。もう、そう長くは生きれない予感です。希望は、そうですね、いつだって俺に付き纏うものでした。


希望が寄ってくるんですよ。引っ張られて、肥大化して、胸の光に目が焦がされそうなくらいに、そうして太陽というにはちっぽけなものでしたが、やっぱり俺にとって太陽で、目指しては、時に私の運命に裏切られ、時に私の無知に取り返しのつかない過ちを踏んだ。



これから先を生きることは、私にとっては過去の清算に充てることが決まってます。長生きは清算の先延ばしに過ぎず、だからこそ、そんな未来を望まず、私は死が訪れるのを待っているのです。


みりん



私の消失について


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私の内界は、私が思い出し続ける、という第一運動によって、全ての歯車が回っているのだと、ある物語を読んだ記録を眺めながら思う。この運動が停止した瞬間から、果てのない世界は、虚無の沼の広がりによって無に帰していく。

一瞬にではない。ある女の言うように、ちょうど、煙草の火を消しても煙が空に立ち昇るように、人々に少なからず観測されていた内界は、時間の経過と共に、徐々に、遠ざかるように消えていくのではないか。そうなると、大昔の偉人の記録は、内界の残骸で、まるで宇宙を漂う化石のようだ。



世界は完成されているのか?

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世界は完成されているのか? 

ならば何故こうも世の中は腐敗し、悪化しているのか? 

たった、ひとりの命が叫ぶ声さえ聞き届けられない世の中にも、人間にも、私は失望している。

なあ、美しき世界よ。

絨毯にたった一滴の哀しみの涙で濡れたならば、その上で生を謳歌する人々、は哀しむべきだろう。