モナムール

解離性同一性障害が、寛解するまでの独り言

私は世界が嫌いだ。

吐き気さえするのは蝉が道端で終わっているのを見たからだ。この世界を蹴り飛ばしたくなるような気持ち悪さを感じるけれど、この気持ち悪さの正体は分からないままであったがようやく推し量れたので記録しておく。


命は呆気なく終わる。終わった命は当たり前ではあるがもはや何も語りはしなければ呻くもしない。ただ騒がしさの中の静寂があるのみである。しかし静寂さえも世界は沈黙することをせず、容赦なく亡骸を照らし出し、またその中へと取り込み続ける。私が世界が嫌いなのはここにあるのだと思う。


私が身を投げることを拒む理由であるのだと思う。結局のところ、世界に絶対的な静寂があるのだという確信が(あるのだとして私に勇気があるかは、否かは置いて)得られない限り、というか、むしろ、その確信から遠のいていくだが、無様に生き続けるだろうとは思う。


この眠りすら許さないような世界は残酷だね。因果論ではない。結果的にこうあるだけで、結局は原因など探すだけ無駄であるとは、思う。

ただ空が青い。ただ残酷。ただ不幸。それだけなんだと、最近は思うようになった。


しかし、私は深いところでは未だに因果論に囚われ、ありもしないだろう超越的な答えを探しているように思う。まぁ。その行為とその行為から生じた苦しみが創造性の源ではあると思うので無駄ではないだろうか。どうだか。